2017/05/29

北村透谷「情熱」(現代語訳)

1. ミルトンは情熱(impassioned)を大詩人の一要素とした。深幽や清楚を備えている者は少なくないが、しかし真の情熱を具有することは大詩人にしか期待できない。風刺(satire)もユーモア(humor)も適切に備えている者は多いが、情熱を欠いているために真正の詩人になれない者は一々数えるまでもない。情熱のない風刺家(satirist)の筆は、風刺という半面を完備していても、人間の実相を刻むことができない。ヴォルテールとスウィフトが偉大であるのは、その風刺が偉大なのではなく、その情熱に熾烈なところがあるからである。ユーモア作家(humorist)はおそらく趣が異なるが、これもまた密かに情熱を有するものでなければ、戯言戯語の価値を超えることはできない。

2. とはいうものの、最も多くの情熱が必要だと認められるのは悲劇(tragedy)においてである。シュレーゲルも悲劇の要素は熱意であると論じられていた。熱意も情熱も要するにその素は一つである。情熱を欠いた聖浄はおそらく講壇に発する乾燥した声のようなものであり、芸術の進化(evolution)には不適当である。情熱を欠いた純潔はおそらく無邪気な記述に留まるものであり、これもまた詩の変化を実現できない。情熱を欠いた深幽はおそらく壊滅的なもの(Annihilative)であり、物に触れても響くところがなく、深淵の深く澄んだ妙趣はあっても、巨大な滝が流れて岩石が振動するような詩趣はない。およそ芸術の壮快を極めるもの、荘厳を極めるもの、優美を極めるものは必ずその根底において情熱を具有していないはずがない。内に秘めた高まり[欝悖(うつぼつ)]があって初めて外へ格別な光線を放つものである。情熱は全てこれに風変わりな洗礼を施すもの、特殊な進化をもたらすものである。「神聖」という言葉や「純潔」という言葉など、計り知れない味わいがあると言われるものはつまるところ相対的なものであるが、情熱と結合し始めると、情熱による最後の洗礼によって遂にほとんど絶対的なものの偉観を呈する。

3. 詩人は人類を無差別に批判するものである。「神聖」も「純潔」もある一定の尺度で測量すべきものではなく、どこまでも生きた人間として観察すべきものである。「時」と「場所」に限定され、ある宗教の形式(form)に拘り、ある道義の体系(system)に泥んで人生を批判することは、詩人の忌むべきことである。人生の生きた側面を観るには極めて平静な活眼がなくてはならない。写実(realism)は到底是認できない。ただ写実が写実である限り、おそらくその注目するところに食い違いがあったり、殊更に人間の醜悪な部分のみを描写するに留まったり、あるいはひたすら調子の狂った心の解剖に従事することへ意を注いだりする。これらは写実に偏ることの弊害が積み重なったものであり、人生を利することも覚束なく、宇宙の進歩に益するところもない。私は写実を厭う者ではない。しかし卑俗な目的によって成り立つ写実は、好美のものと言うことができない。写実も到底情熱を根底に置かなければ、写実のために写実をなすという弊害を免れられない。あるいは写実と理想を兼ね備えたものがあったとしても、情熱がなければどうやってその妙趣に達し得るのだろうか。

4. 情熱は虚思の反対である。情熱は執であり、放ではない。およそ情熱のあるところには必ず拘るもの[執る(まもる)もの]があり、それゆえに大いなる詩人には必ず一種の信仰があり、必ず一種の宗教があり、必ず一種の神学がある。ホメロスに古代ギリシアの神霊が見られ、シェイクスピアに英国近世の信仰が見られ、西行に西行の宗教があり、芭蕉に芭蕉の宗教があるが、ただ俗眼ではこれを見ることができないのは、全ての儀式と全ての形式を離れて成り立つ宗教だからである。彼らの宗教的観念は具体的にすることができないが、だからと言って宗教が無いのだと言うのは、宗教が何であるのかを知らない論者の見解である。人類に対する濃厚な同情も、宗教の一部と呼んではならないのだろうか。人類のために沈痛な批判を下して反省を促すのも、宗教の一部と呼んではならないのだろうか。悲劇(tragedy)も宗教であり得るし、喜劇(comedy)も宗教であり得る。しかし誤解しないでほしい。私は無暗に宗教と文学を混同し、その具体的な形式を当てはめようと意気込むような主義に加担するものではない。

5. (私が言うところの)宗教は情熱を起こすことを間違いなく一大要素としていなくてはならない。是非と善悪を分別するために最大の力を用いる宗教でなければ、たとえ野蛮な(brutal)情熱を得ることはできても、優と聖と美とを備えた情熱を期待することはできない。宗教的本能は人心の最奥を貫き、純粋な高等進化を全ての観念に施すものである。憐れむべき利己の精神によって生を盗んでいる人間を覚醒し、物類相愛の道理を観るようにし、人類相互の関係を悟らせるものは、宗教の力でなくて何なのか。ここに宗教がある。その後には高尚な(noble)情熱がある。宗教的本能を離れない情熱が芸術に対し、特別な進化(evolution)を与える力を決して軽んじてはならない。

6. いかに深遠な哲理を含んでいても、情熱のない詩は生きた芸術をなせない。いかに技術が精巧を極めていると言っても、もし情熱を欠いたものであれば、丹青の妙を尽くしたものとは言えない。芸術に余情があるのは、その作者に内面の活気があるからである。余情は徒に得られるものではなく、作者の情熱が自然と蓄積するところに余情の源泉が存在するのである。単純な模倣者に人を動かすことができないのはこのためである。大いなる創作は大いなる情熱に伴うものである。創作と模倣は、要するに情熱の有無によって判別すべきである。それゆえ、画家が無意味な事物の模倣を事とし、ひたすら虚妄に心を向けるのは、そもそも情熱を理解していないがゆえの過ちである。


7. 振り返って明治の作家を考えてみると、真に情熱の趣を備えたものを探すことができるだろうか。[幸田]露伴には多少それが見られる。しかし彼の情熱は彼の信仰(宗教?)によって幾分か常に冷却されている。彼は情熱をあり余るほど持っていながら、一種の寂滅の思想によってこれを減退させている。彼が悲劇(tragedy)の大作を完成できないのは、他の原因もあるとしても、主にこの理由からである。[尾崎]紅葉の情熱は宗教と共に歩むものではなく、常に実際(real)に追随するものである。それゆえ彼は世相に対する濃厚な同情を有しているのだが、その著作はどういう訳か妙技に偏っており、詩想の霊感に届かないのは別に情熱が真ではないことに原因があるのではない。[山田]美妙にはほとんど情熱と呼ぶべきものは認められない。叙事家としてはともかく、写実家としての彼の技量は紅葉にも及ばない。[宮崎]湖処子を崇拝する人々の中にしきりに彼の純潔を語る者がいるのは良いが、私は彼の純潔が情熱を洗礼を受けたものではないと信じているため、美しき純潔と言われるのは許せない。嵯峨の屋[おむろ]に面白い情熱があるのは本当であるが、彼の情熱はむしろ田舎法師の情熱であり、大詩人の情熱を遠く離れていると言うべきである。最近は古藤庵[無声]の悲劇が続けて出ているが、読者にはどれにも何となく変わって見えると思う。要するに、古藤庵の情熱にはおそらく従来の作者と違うところがあり、悲劇としての価値はともかく、私はその情熱を大変に得難いものだと認めざるを得ない。斎藤緑雨に面白い情熱があるのは彼の小説を一目見れば看破できることだが、惜しいことにその情熱の素はおそらく卑俗さを免れていない。彼のような風刺の舌を持つ作家が、彼のような卑賎な情熱を持ってしまったのは惜しいことであり、彼を一年でも露伴の書斎に籠らせたらと傍目から心配してしまうものである。今日の作家の病はその情熱の欠乏に基づくところが大きい。人間観の厳粛さや真摯さを今日の作家に伺うことはできないか、これは大したことではない。愛好すべき単純さ(simplicity)と愛隣すべき繊細さ(delicacy)も伺うことができないが、それも大したことではない。もし日本の固有の宗教を解剖し、情熱と相関するところを発見できれば、文学史の愉快な研究となるだろうが、これは私の今日の仕事ではないから、少し触れて識者に問いたいと思う。(完)
(『透谷集』、文学界雑誌社、明治27年10月)