2019/06/01

映画感想:テオ・アンゲロプロス no. 1 『シテール島への船出』

【記事について】
テオ・アンゲロプロスの映画を見た感想を書いていきます。ネタバレを含むので注意してください。

【映画について】
シテール島への船出(Taxidi sta Kithira, 1984)
アンゲロプロスが『アレクサンダー大王』の次に撮った作品。前作同様に戦後ギリシアの政治史を強く意識させる一作となっている。ソ連崩壊後にギリシアへ帰郷した老人とその妻を中心に据えて、時代の変化に晒される人間と(当時の)現代ギリシア社会の歴史意識を描いている。監督曰く、「歴史を信じ、歴史を担い、そして全てを失った人間」を前面に押し出した作品。

【好きな場面Ⅰ:帰郷者と忠犬】

忠犬アルゴスについては、後述の感想の通り。

【好きな場面Ⅱ:パンの切り分け方】
 
家族一人一人だけでなく、食卓にいない家族の分から旅人の分までを等分に切るというシーンがとても良い。最初は共産圏の文化かと思ったけれど、旅人の分というフレーズからは歓待や施しの文化のようなもっと古いものもイメージされる。

【好きな場面Ⅲ:夜明けの船出】
薄明るく凪いだ海が二人を運ぶ様子は本当に美しい。

【感想】
・スピロの設定のヒント
 劇中劇(というより本編)の舞台設定は明言されていない。ただし、父スピロのソ連亡命から帰国までの間には32年というかなり具体的な数字が与えられている。この数字とソ連という亡命先から、スピロはギリシア内戦時に共産党の側で戦った闘士であったこと、そして、共産党勢力が鎮圧された1949年に亡命し、ソ連の解体した1981年末辺りに帰国したことが推理できるようになっている。そして、この背景は口笛信号の場面や食卓の場面でも言及される。
・『オデュッセイア』との共通点と相違点
 ホメロスの『オデュッセイア』を読んだことがある人なら、この帰郷者の叙事詩が下敷きになっていることに気づくかもしれない。僕がそのことに気づいたのは、スピロが身を休めている犬に「アルゴ」と語りかけた場面だった。オデュッセウスは会食者たちへの復讐のために、変装して故郷に忍び込むのだが、それに最初に気づいたのが彼の忠犬アルゴス――あまりに長く主人を待っていたために汚れて弱り切っていた一匹の老犬だ。ただし、同じ犬が30年待ち続けることなどできないのだから、映画のこの場面はあの犬をアルゴと呼ぶこと自体に意味のある場面なのかもしれない。
 そう考えると、スピロを待ち続けた妻にしてスピロと連帯して抵抗するカテリーナはペネロペ、ソ連での妻はカリュプソー、スピロとペネロペの家で食事に与りながら、故郷の土地をリゾートに売り払おうとする土地の人々は会食者たちだということになるだろう。僕の感覚では、こうした役割について映画と叙事詩の間にはちょっとした対応があるように思う。
 しかし、そうすると今度は、叙事詩と映画の間の深い相違も無視できなくなる。叙事詩においてオデュッセウスは会食者たちを皆殺しにしてイタケーの王として再び君臨するが、スピロは違う。むしろ、スピロは古き良き故郷を守ることも叶わず追放者となり、第二の故郷と言えそうなソ連に戻ることもない。故郷の内と外の間にある浮桟橋で、スピロはカテリーナと抱き合う。そこには(監督の言葉を借りるなら)かつて「夢の向こうの形而上学」であったもの、今や人々が忘れたがっているが生き残ってしまった亡霊の姿がある。
 最後、切り離された桟橋は彼らをどこへ運ぶのだろうと思った人はみな、タイトルの意味を考えると思う。シテール島はアフロディーテの島なのだから、老夫婦に残されたのは愛だけだ(カテリーナの「そばにいたい、共に行きたい」)という発想をしても良いかもしれないし、あるいは『オデュッセイア』におけるトラキアからキュテラへの船出を元に何か考えても良いかもしれない。いずれにせよ、『アレクサンダー大王』を完成させた後に「歴史から人間へ」ピントを移したという監督の言葉に偽りはないと思う。